ローカル+オンライン=メディアと教育の最適化
読んでみて思ったこと。
— マツ@21世紀の学び=共育 (@matukage1830) 2018年6月18日
①マスメディアは不要
②強いメディアはG・Lに振り切れる
③個の台頭と所属意識
マスは難しい。グローバルでファン獲得、難しいなら超ローカルが成功の鍵。あと、個別化した時「属さない不安」とどう向き合うか?
教育がポイントは賛成!
共通言語より分散化への適応かな。
若干の記事のネタバレになってしまいますが、何人かの大学生の方々に聞いて見たんですよね。AKBのこと。ある意味期待していた通りの答えでした。
マツ「AKBの総選挙、今回って誰が1位だったの?」
学生「はぁ…えと、AKBは知ってるんですけど順位とかそういうのは知りません」
とりあえず五人に聞いて、五人ともこんなリアクション。完全なる個人の興味による調べですが。「興味ありません」とかいう冷たいリアクションではなく、本当に「知らない」ってリアクションなんですね。これはある意味一番キツい。やはり、もう誰もが知っている国民的スターは生まれない、と改めて感じる瞬間です。
これだけSNSが発達して、個別化・多様化が進む中で「誰もが知っている」「マスに影響を与える」そういうものにどれだけの価値があるのか?
塩谷舞さんがこのこととマスメディアについて書かれたnoteを読んだ感想をツイートしました。そしてその時考えたこと。
「教育って共有言語になり得るのか?」
「国レベルで共有すべきことってあるのか?」
「でも、教科書にも載っていないけど根っこで繋がっているような感覚はずっとずっと共有したいよね!」
こんなことを考えました。塩谷さんは「メディア」という切り口で書かれていらっしゃいましたが、ボクは「教育」という点で今思っていることを綴って見ます。
【本日の目次】
- ①マスよりもローカル・個
- ②授業・教科書で共通言語は難しい
- ③「四季」という考えは共通共有できるか?
- ④ローカライズ・分散化したコミュニティ同士の交流が理想
- ⑤日本の「本当に素晴らしい国民性」はどう育まれるのか?
①マスよりもローカル・個
そもそも論になりますが、メディアも教育も、日本の文化的には「デカすぎるといけてない」のだと思うんですよね。実際、日本も昔々は藩に分かれていたり、「甲斐国」みたいに小さな単位で区切られていました。国境はないけど関所はある。中央集権ではなく、地方分権だったわけで、実はそれで困ったこともさほどありません。
少し話はそれますが、少子高齢化といっても日本はとても大きな国です。
世界190ヶ国の内、人口1億人を超えているのは僅かに12です。ちなみに全世界で平均をとると、1ヶ国の平均国民人口は3880万人くらい。これは関東地方の人口よりも少ないのです。世界的には人口数千万・数百万の国の方が多い。
日本本来の歴史・そもそも国という考え方を見直したとしても、いわゆる共通言語は国レベルではなくせめて地方単位・願わくば数十万〜数百万人レベルが適切なのかな、と思っています。
②授業・教科書で共通言語は難しい
調査数は少ないですが、面白い記事ですよね。ボクも少しだけ某教科書会社の知人の依頼により教科書校閲作業を趣味的に手伝ったことがあります。「本当にボクが校閲したものが出回っていいの??」と当時は思いましたが(笑)
その時にも関係者と話しましたが、例えば小学校国語の教科書って、全国すべての教科書で同じ文章文献を扱っているかというと、ほとんどそうではないのです。それこそこの記事に出てきますが、確かどの教科書にも共通して載せているのは「ごんぎつね」くらい。
採択する教科書・地域によって文字ベースで学ぶことは多様です。文章やコンテンツによって共有言語が作られるかは難しいところですが、感情・感動に与える影響は大きいことを考えると、これも多様であって良いのかな、と思います。
③「四季」という考えは共通共有できるか?
ここは明確に◯とか✖️に区切れない部分なのですが…
ちょっと前まで、ボクは「四季の移り変わりは日本の文化風土・日本らしさを創る重要な要素」と思っていました。四季折々の草花・魚・野菜など。いいですよねぇ…
ボク、こういう本が好きで、時々ただただイラストを眺めたりしています。日本らしさって四季・季節にあらわれるよねぁ…って。
ただ、これもやはりなかなか共通言語化されないことを、地域地域に住んでみると体感します。理屈ではなく。
例えば「春の花といったら?」と言って「桜!」となるのは意外と狭い範囲。関東地方はそれでよくでも東北で桜といえばゴールデンウィーク前だったり。桜前線=春を告げるもの、とはならないんですよね。
「いやー花粉の厳しい季節になりましたね」といっても沖縄は花粉飛ばないです。沖縄は日本でない時があったからね、と言われたらそれまでですけど。「四季」という共通言語を持つことはとても難しいな、というのがボクが思うこと。
でも、日本という狭い国の中でこんなに繊細に複雑に季節や空気が変わること自体は特徴的であり、日本らしさを創る土台になっている。これは十分言えることだと思っています。
④ローカライズ・分散化したコミュニティ同士の交流が理想
オランダなどは地域・自治体によって最適な学びを独自に考えてカリキュラムを作ります。教科書も国のチェックとかは重要ではありません。そして地域ごとの考え・方針に共感したらそこの教育を受けさせる。日本もこんな考えでいいのかな、と思います。
リアル世界での地域特化であれば、限界まで地域に尖っちゃう。「マツばあちゃんのお家の夏野菜が収穫時期を迎えました!〇〇小学校の皆さんは農業体験授業として収穫に行きましょう!」みたいな。そういう地域の新聞は「3丁目の斎藤さんちの娘さんが誕生日です!」みたいな記事が普通にあるような。
今はこれらに加えてオンラインコミュニティも盛んになりつつありますから、デジタルの世界でもすごくコアな話題で盛り上がれたりする。
多分これからは「マスメディアや統一した教育をどう盛り返すか?」よりも「地域・趣味嗜好にあった小さなコミュニティでどう学びを展開するか?」ここに努力や工夫をして、どこに属するかを考えていく方が、本来の国民性でいっても馴染むのだと思います。
昔との違いはテクノロジーの力で、分散化コミュニティ・地方分権化された地域同士での交流がとっても簡単にできること。昔であれば「閉鎖的」で終わっていたことが、今はそうではありません。
お互いがやっていること・参考にし合いたいことは、簡単に時空を超えて意見交換ができます。これは大きいですよね。だから分散化されていても取り残されることはありません。もちろん意識・関心のアンテナを貼っておくことが大前提ですが。
⑤日本の「本当に素晴らしい国民性」はどう育まれるのか?
これはまだまだずっと探求したい問い。
つい先日、大阪で大きな地震がありました。その時のSNSでの発信・助け合い・気遣い・スピードのすごいこと!東日本大震災の時「ガソリンが供給されなくなる」と言われてガソリンスタンドに人が殺到しました。が、その時も整然と列を作って並んでいましたよね?あれ、海外の方から見ると不思議でしょうがなかったそうです。「普通だったら暴動や奪い合い、下手をすれば死傷者も出ても不思議ではない」と。
日本人っていざとなると本当に団結力がある。そして優しい。「利他の精神」とはよく言ったものです。でも、ボクはこの国民性というか感覚がどこで育っているのか、正直よくわかっていません。でも確かに日本にはあるんですよね。
この不思議な、そして尊い文化に興味を持って教育に取り込みたいと思っている諸外国は意外と多いみたいです。確かに意図的に・体系的に作れるならばめっちゃすごいことになりますよね。
理論理屈でうまく解析できないこの部分にこそ、育み続けていくべき何かのヒントがありそうですね。
さて、いかがでしたでしょうか?
「教育」ってどうしても小難しく捉えられがちですが、やはりとても大切なことだといつも思っています。そもそも人は学ぶ生き物ですから、本来はもっと楽しめるものですよね。学校教育はどうしても好きになれないのですが…
ボクたち日本人の肌になじむ規模でコミュニティや学びのカリキュラムを創る。そしてコミュニティ同士の、分散化したもの同士の多角的な交流で学びを深める。
それが当たり前になった時、本当の「共通言語」が何なのかに気づくことができるかもしれませんね。
ではでは!